21グラム

ymdです(口癖)。このブログも3周目に突入しまして、いよいよ各位のネタ切れの方が激しくなってきた頃かなと存じます。生憎の私も同感です。書きたいことがまだ思いつかないのに見切り発車で文章を書き始めているのだからひとえに無計画の極みなのですが、そんな無計画性から生まれる文章というのもそれなりに乙なものなのかもしれません。たぶんそんなことないです。計画に計画を重ねて三日三晩エラボレイトされた文章の方が何倍もすばらしいに違いありません。そう信じたいです。

 


有名な話ですが、魂の重さは21グラムだそうです。魂の重さに関する科学的なアレコレに関しては色々と逸話の残るところではありますが、これを槍玉に上げたところで新奇性のある話は出来そうにもありませんし、そういった類の話はしません。いつも思うのですが、科学の良いところは事象が科学の中で概ね完結していることであって、それを外に持ち出すのは馬鹿馬鹿しいこと甚だしいと思うんですよね。換言しますと、魂の重さが21グラムかどうかについて論理的な思考を巡らせて答えを得るのはいいですが、魂の重さが21グラムであるという仮定の下で生まれる思想とか感情も、魂の重さの存在を確かめることとかと同様に大事だと思うのです。感情も理性と同様に愛されるべきなんですよね。理性と感情、ふたつ持っていて問題ないのだったら両方持っておいた方が視野が広くていいのです。

 

話を戻しましょう。今日は文章が下手な日ですね。
私はコーヒーが好きなのですが、それはコーヒーの味が好きというわけではないんですよね。コーヒーの何が好きなのか、自分でもよくわからないなと思いながら私はあの液体を流し込むんですけど、たぶん私はコーヒーを構成するすべての要素――味とか香りとか、温度とか色とか、珈琲という漢字の持つ独特のアトモスフィアだとか、あれを飲んだときに覚える感傷だとか自己陶酔だとか息を止めて水中に潜るような恐怖とか水中に溺れて沈んでしまえるような快楽とか――それらが綯い交ぜになったあの感覚が好きなんだと思います。矢庭に何を自分語りしてるんだと思われても仕方がないと思いますが、要するに私は、コーヒーの苦味が好きだからコーヒーを飲んでいるわけではないし、苦いコーヒーは文字通り苦手です。なのでタリーズとかドトールとかでコーヒーを頼んだときはガムシロップを大量に入れるんですよね。今はそうでもないのですが、昔はガムシロップ1つに飽き足らず、ガムシロップの2つ目も使って、その半分ぐらいの量を追加していました。さて、ガムシロップひとつはおよそ13グラムですので、ガムシロップ1.5個でだいたい19グラム。これに3グラムのコーヒーミルクを加えれば22グラムです。簡単に魂の重さを越えてしまいます。でもガムシロップとミルクを入れる前と入れた後のコーヒーは、持ち上げてみても大した重さの差を感じないんですよね。しかしそのコーヒーには確かに魂と同じ重さが宿っている。心なしか、そのコーヒーに魂が宿ったような気がしませんか。ガムシロップ1.5個とミルク1個により苦かったそれが甘すぎる液体に変化するように、ただの有機体に魂が宿って、人間という動物が人間という非動物を志向する動物になるように、たった21グラムで苦味は甘味に、感情は理性に、無は有に様変わりします。世界を汚すのに21グラムで事足りるのです。

 

私は21グラムという言葉に特別な意味を感じていただきたいと思っていますし、21グラムという言葉に限らず、こうやって単語のそれぞれに自分なりの思考を付与してみれば、眼下に広がる世界が随分と様変わりするとも思っています。目の前に物体が存在することは誰でも認知することができますが、物体を見て何を思うかは人それぞれです。そのインプットをアウトプットに還元したものがゆくゆくは人を構成する要素そのものになると思いますし、私は人を知りたいからこそ、自己発現の場の存在を積極的に肯定したいと思うのです。
ちなみに人を知りたいと思うのは、人を知る努力をしなければ物語を作れないからです。

 

余談ですが、私は魂の存在を信じていません。とはいえ、信じる信じないはさておき、魂の存在を仮定したときに生まれる思想や感情は、魂の存在を仮定しなければ生まれ得なかったものですので、私は魂の存在を肯定しています。魂なんてオカルト的なもの存在するとは思っていませんが、魂が存在しているならば嬉しい、出来れば存在していてほしいと思うのです。


論理とか科学とか正確さとか、そういった類の正しいとされるものは得てして正しくなかったりします。本当に必要なものは正しいとされるものではないのです。

 

 

 

 

twitter.com