名前

 僕は自分の名前が嫌いだ。こんなことを言うと両親からこっぴどく怒られそうなものだけれど、それでも僕は自分の名前が嫌いだ。その理由を他の誰かへ話すことは決してないだろうし、話すつもりも全くないけれど、とにかく僕は自分の名前が嫌いなんだ。

 大嫌い、と言ってしまっても構わないし、憎んでいる、と言ってもいい。僕が本名に向ける感情をどんな言葉で形容するのかということには何の意味もない。それは全く本質ではないし、どう表現しようが本質は変わらない。それは紛れもなく真っ黒に染まった負の感情であることを僕は自覚している。

 名前というやつは厄介なもので、僕は死ぬまであいつと一緒にいなくてはならないだけではなく、他の誰かと出会う度に僕があいつ自身であり、あいつもまた僕自身であるということを否応なく自覚させられる。これほど苦痛なことはない。自分が嫌う人種の特徴を挙げてみると、それは思いのほか自分自身にも当てはまることが多いという話はよく聞くけれど、しかし、僕の場合、『当てはまる』どころではなくそれは僕自身のことだ。だから、ずっと息苦しくて仕方なかった。

 ところで、僕は山上一葉という名前を現在ではよく名乗っている。ここに堂々と書いたということはもちろん本名ではなく、その発祥は高校一年生の頃まで遡る。当時は特に何の意味もなく作り出した架空の人物だった。その頃から使っていた一葉という名前をよりリアルに拡張しただけの存在で、名字の山上なんて、それを決めるのに一分も悩まなかっただろう。だって、悩んだ覚えが全くないし、その必要も全くなかった。

 それ以降、『山上一葉』という人物が僕の中で住み着いた。設定なんてものは何一つもありはしなくて、彼に与えられていたのは何の捻りもない淡白な名前だけだった。彼はたしかにずっと僕の中にいたけれど、しかし、その姿を人前に見せることは一度だってなかった。当たり前だ。その必要がないのだから。

 そんな彼が表へ出てくるようになったのは、僕が大学へ入学してからのことだった。特に深い考えがあったわけじゃない。たしか附属図書館にある大部屋を初めて使った日がそうだった。利用者名簿に名前を書かなくてはならなかったのだけれど、かなり雑な仕様になっていて、部屋を使った全員が全員書かかなくてはならないわけでもなく、とりあえず『この団体が使った』という証拠の為に取られるものらしい。そこで僕はこう思ったわけだ。だったら偽名を書いてもいいよな、と。そのとき僕は初めて彼を――『山上一葉』を現実に連れ出した。

 それ以来、僕は『山上一葉』が自分の本名であるかのように振る舞い始めた。そして、それは十分すぎるほどに上手くいった。他人の名前なんて、結局のところ、それが誰であるかをラベリングするための記号に過ぎず、自分の名前に価値を見出すのなんて自分とその親くらいのものだろう。誰もそれが本当か嘘かなんてことに興味は無くて、区別できるのなら僕の名前なんて何でもいい。

 山上一葉でいられるときはとても気が楽だ。その間だけ僕は自分の名前を忘れていられる。嫌いなあいつの影を自分の視界から拭い去ることができる。その瞬間だけは不連続な存在でいられる。そんなの心地が良いに決まっている。

 どうして三年以上も経た今になって彼の名前を用いるようになったのか。その理由を必死に考えた僕なりの答えがこれだった。僕は自分の名前から逃れるために彼を盾にした。自分の悪意から目を背けるために彼の姿で視界を覆った。誰しもが社会を生きる中で仮面を被っているわけで、それが僕の場合は『山上一葉』という名前であり、存在であり、彼そのものだったというだけの話だ。

 そう思ってからというもの、誰かと知り合うたびに、この人はどんな仮面を持っているのだろう、と気になることがある。といっても、それを引き剥がしたいなんてことは全く思っていないし、それは僕だって嫌だ。仮面の上からでも上手く付き合っていけるのなら、それで全く構わない。わざわざ隠しているその向こう側を覗こうだなんて、それこそ深淵もまた何とやらというやつだろう。

 僕が、あるいはこれを読んだ君が、そして其処にいる誰もが、仮面を被り生きることを受け入れてくれる環境に僕はいまとても感謝をしている。

 

 これはそういうメッセージの一つだ。

 

 

@1TSU8