学ぶということ、読むということ。

学ぶということについて少し考えてみた。

新しく何かを見聞きするということは、つまり自分の心内世界に異邦人が来訪するということである。
その異邦人を定住させる際には新たな領域を用意することとなり、それはつまりそのことによって心内世界が拡張することとなる。定住した元異邦人は近縁の領域に住む人々と交流し、拡張された新領域は従来のものと一体化する。そうしてはじめて知という「国」が広がる。
つまり、インプットをしただけでは「見た」だけと同値であり、それを咀嚼し自らの一部として使えるようになってはじめて「学んだ」と言えるのだ。

創作においてもそれは同様で、文章における修辞技法、様々な単語も、「知っている」の領域から「使える」の領域にしなければならない。どれだけ多くの文を読んできたかは「知っている」ものの多さに繋がるが、「使える」ものの多さを意味しない。本を読んだ上で、その技法を盗み、自らの腕としてこそ、「文章力」は上がる。

自分はそう信じてこれまで進めてきたが、「本を読む」という習慣をあまり作ってこなかったためか、インプットが不足してきてしまっていると感じるようになった。そもそも「読む体力」があまり鍛えられていないので、一度に読める量が限られてしまっている。これからは時間のあるときになるべく本を読みたいところだが、しばらくはまだ苦戦するだろう。中高生の頃までに読書習慣をつけなかったことを今更ながら後悔している。読む時間が一番潤沢にあるのは学生の時なので、早いうちに習慣付けたいものだ。就職して以降も読む時間は確保できるように生きられるならそれにこしたことはないのだが。
物質的金銭的豊かさばかりにかまけて精神的豊かさをないがしろにする生き方だけは避けたいものである。

編集 五十嵐悠紀(http://twitter.com/c_love_r_master