こんにちは、初めまして。

 

 

「さて、と。挨拶が済んだところで、僕はいったい何を話せばいいのでしょう? いきなりこんなところへ呼び出されたはいいものの、でも、話すことなんて何もないですよ。ああ、それなら、まずはその辺りの経緯から話すことにしましょうか――ところで、経緯という漢字は『けいい』と読むわけですけれど、恐らく多くの人はこう読むだろうと思うのですけれど、たとえば僕がこの言葉を舞台劇か何かの台本で使うことになったとして、そのとき僕はそこに『いきさつ』という平仮名四文字をルビとして振ることでしょう。まあ特に変わった理由はないのですけれど――いえ、わざわざその二つを区別するのであれば其処には何かしらの理由が伴っているに違いないと思いたくなる気持ちは分かりますけれど、しかし、その発想はとても危険だと、僕としては、僕みたいなやつとしては、はっきりと警告せざるを得ませんね。それは危険です。たとえば、行間を読むという言葉がありますけれど、あれっておかしいと思いませんか? 僕はおかしいと思うのです。おかしい。つまり、奇妙なのであり、何なら奇怪ですらあるのです。奇しく、怪しい。何も難しい話じゃありませんよ。至極簡単な、中学生でも分かるような話です。種を明かせば単純なことで、というのも、行間なんてどこにでもあるじゃないですか。それを読めと言われても、果たしてどこから読めばいいのでしょう? 実際に数えれてみれば高々有限個の行間ですけれど、しかし、感覚的には――あるいは感情論的には無数にあると主張してしまいたくなるような夥しい量のそれらに対して、いったいどこから手を付けていけばいいのやら――そう思いはしませんか? 奇妙であり奇怪であると、そう思いませんか? あるいは、こんなのは全くナンセンスな思考だと思いますかね。つまり、まるで意味がないのだと。ええ、そうかもしれません。でも、そうでもないかもしれません。こういう馬鹿げた揚げ足取りからでも何か面白いことが見つけられるかもしれないじゃないですか。だから、無意味なことを無意味だと言って切り捨てるのはよくありませんよ? ナンセンスだとまでは言いませんけれどね――いえ、別にそんな大それた話をしようというわけではないのです。行間を読むという行為は読者の主観にのみ依存しているという話を僕はしたかったのですよ。読者が勝手に行間を選び、読者が勝手に筆者の心を推し量り、読者が勝手に結論づけ、読者が勝手に納得したりしなかったりするのです。一から十までの何もかも、一部始終が徹頭徹尾、読者の一存のみによって決定するのです――そんなのは当たり前、でしょうか? ええ、当たり前です。数学風に言えば自明です。trivialです。しかし、当たり前だと思ってはいてもついついやってしまう――それが僕たち人間ってやつでしょう。あるいは、言われてみれば当たり前だと思う程度のことを、言われるまでは当たり前だと認識していなかったりもしますよね――いわゆる名言とかいうのに心を震わせるような人たちがその典型例じゃないですか。そんなことは誰でも知っている――そう言いたくなるような数々の言葉が、それでもいまなお現代まで語り継がれているのは、発言者の権威により言葉へ与えられた魔力的な何かがそうさせているという見方もできますけれど、しかし、実際は恐らくそういう愚かな人間がこの世の大半だからというのが本当のところでしょう。当たり前のことを、それでも言われるまでは当たり前だと思えないような愚鈍な人間ばかりだということですよ――だから、僕はいまこういう話をしているのです。誰もが知っているようなことを、それでも声高に唱える人間がいなくてはならないのですよ。話を戻しましょうか。まあ、話すことなんてもうこれ以上ないですし、時間も残り少ないですけれどね――あれ、最初に言っていませんでしたっけ? ああ、そうか、まずはその話をしようと思っていたのに、それよりも先にこんな話をし始めてしまったのでした。迂闊でした。緊急を要するような話ではないので、別にこのタイミングで話しても何ら問題はないのですけれど――僕はこの場に一時間しかいられないのです。この後すぐに全く別の予定が入っているのですよ、残念ながら。そもそも僕がどうしてここにいるのかと言えば、敬愛すべき先輩から、一時間だけでもいいから僕の代わりに行ってきてくれ、とお願いされたという経緯がありまして――それで先輩想いかつ模範的後輩であるところの僕がこうして押っ取り刀で駆け付けたというわけなのですよ。しかし、やってきたはいいものの、さながら刀を携えての鬼退治くらいの気分でやってきたはいいものの、大した話は出来ませんでしたね、すみませんでした。こればっかりは先輩の人選ミスということにしておきましょう。僕の落ち度ではなくて、先輩の落ち度です。後輩の失敗は先輩の責任なのです。一模範的後輩の僕は、模範通りに、その言葉に助けてもらうことにします。それでもせめてもの情けというか、いえ、決して情けなんかではないですけれど、しかし、先輩の顔は立てておく方が望ましいですし、最後のまとめくらいはちゃんとしておくことにしましょう。結局、行間なんて存在しないのです。読むべき行間なんてものは、本当はどこにもないのです。読者が勝手に行間を見出しているのであり、一方の筆者は何も考えていなかったということが平然と起こり得る――むしろそちらの方が高確率で発生するという当たり前のことを、僕たちはもっと知るべきなのですよ。ほら、一度くらいなら聞いたことがあるでしょう? センター国語で出題された問題を他ならぬ筆者自身が解いてみたら全然解けなかった――みたいな話を。つまりそういうことなのです。読み手が、あるいは聞き手が、自分の認識に入り込んできた言葉に主観的な解釈を一方的に与えているという図式こそが正しいのであり、だからこそ、認識下にある対象について片っ端から意味を見出そうとするのは本当に危険なことなのです――危険というよりはおっかないという感じですかね。それが自分勝手な解釈であるということを、そんな当たり前のことさえも分かっていないような人間が、そういうことをするべきではないという話です。たとえば僕のように、何の意図もなしに『経緯』を『けいい』ではなく『いきさつ』と読むような人間が存在するのだと――そういう価値観の存在を認知せずして、自分の価値観のみで物事を捉えるのは非常に危ういという、そういう話なのです。っと、これでちょうど一時間くらいですか――正確には七分ほどオーバーしていますけれど、しかし、このくらいならば許容の範囲でしょう。この後に入っているという予定にも、まだ余裕で間に合います。よかったよかった。では、不肖僕はここで立ち去ることにしましょう。不詳のまま、正体不明のまま、霧が消えるように立ち去ることにしましょう。まあ正体不明なんてかっこいい言葉を使ったところで、移動手段がママチャリなんじゃ恰好がつきませんけどね。ではでは、またいつかお会いしましょう。それまでは、さようなら」

 

 

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