君と羊と人と象
わさビーフは3秒で飽きる
気が付いたらアドカレが回ってきててウケますね
はじめまして、おますけです
嘘です、げんなり豆腐です
何書いたらいいんですかね
この企画(アドカレ)自体は元は去年の12月に僕が始めた企画なんでしたっけ
今回のアドカレ跡地を利用した企画は僕ではなく今の代表さんが始めた企画とのことです
昔の自分がどう思っていたのかはよく覚えていませんが、今の自分にそんな気力――他人を知ろうというような気力が全く湧かないのが不思議ですね
ときに、トラベリングプレデターというボカロ曲があります
最後の歌詞に、
『僕はみんなを知りたいんだ』
という文言があるんですよね
本人談だったと思いますが、今回の企画はそういった動機があるとのことです
さてこの言葉を反芻してみるに、僕は今さら何も語ることが無いな、と思うのです
僕は三度の飯より自分語りが好きなので、普段から思うところを口走るきらいがあります
自分語りが好きな奴に中身が備わってるわけないんですよね
ぼんやりと韜晦チックな態度に憧れているくせに、持ち前の自己顕示欲の強さがそれを許してくれないのです
そのくせ人の話に耳を傾けようとしないから終わりですよね
では何故企画の参加に立候補したのかと言われると耳が痛いのですが、まぁ景気づけみたいなもんです
今更降りるのも空気が悪くなるのでね
では自分語りを始めます
ジオラマが好きなんですよね
ジオラマが好きというとひどく限定的に聞こえるので、こうとでも言いなおしましょうか
昔からマクロ的視点から見た街が好きです
さらに掘り進めれば、街の呼吸する様が好きです
街の呼吸ってなんやねん
僕もそう思います
でもそうとしか形容できない気がする
高いビルから街を見下ろしたときって、不思議な気持ちになりませんか
眼下に広がるその小さな建物に、自分がすっぽり収まりうることに実感がわかない
例えば大通りがあって、無数の車が風を切って進む
その一台一台はすべて人間が動かしている
でも上から見れば、そんな当たり前の事実が信じられないような気持ちになる
まるで意志もなく自然に動いているように見える
マクロ的視点から見た街に住む人間は、それぞれが意志をもって動いているのに、意志を持たない物体として僕の目に映る
ひとりひとりは確固たる意志を抱いて生きているのに、上から見れば同じ一日を繰り返しているように見える
街は呼吸をしているのだ、と常々思っている
明確な意味などあるわけもなく、でも退屈そうに酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出す
そんな街の呼吸、いわば群像が、しばしば僕の心臓に触れる
梅田から西宮北口に向かう急行の窓から神崎川を見ていたときに、川にサッカーボールが浮かんでいたのを見て、そんなことを考えていました
あのサッカーボールは誰のものなんでしょう?
どこから流れ着いたものなんでしょうか?
川にサッカーボールが落ちているというある意味で異常な状況が作り出されるのに、どんな意志が介入していたのでしょうか?
ただその意志の介入の結果としてサッカーボールは気持ちよさそうにぷかぷかと浮いています
それ以外には何もありません
街の呼吸といえば、僕は人が生まれたり死んだりする様子をそのメタファーで例えたことがある
その呼吸と先述の呼吸は全く別の比喩だということを断っておきます
意志というものはどれだけ頭を使ったところでよく分からない概念のままですね
でも、意志なき街が呼吸をするのと、僕たちが酸素を吸って二酸化炭素を吐くのとでは、大した違いが無いように思えるんです
だって、別に生きるか死ぬかの2つの選択肢が同等に提示されたうえで、生きる方を選んで生きてるわけじゃないでしょう?
死ぬ方法を知らないか、死ぬのが怖いか、別に死ぬ理由がないのか
なんだっていいけれど、僕たちは生きるという選択肢を選ばされている
自分が今生きているという事実に生かされている
選ばされるんじゃない、選ぶんだ、なんて強引なことは言いません
そんな解釈ができるということを知って欲しい
もし似たようなことを考えたことがあるのなら、もう一度それを思い出して欲しい
そうやって、思索の歩みを少しずつ進めて欲しいんだ