人間の世界はきっと、こじつけと思い込みでできている

こちらでははじめまして。諸事情で例会に顔を出せておりませんが、910プロで主に編集を担当しております五十嵐悠紀と申します。たまにSSの寄稿もしております。よろしくお願いします。

せっかくブログを開設したということなので僕も何か書きたいなと思い、筆をとった次第であります。これといった結論に至るでもなく、思索を書き散らし言を弄したような文書(要するにただのナンセンスな言葉遊び)に、お付き合いいただける方はお読みください。

 

 

人間が発見・発明したものは本質的にア・プリオリであり得るのだろうか、ということについて僕は時折思索にふける。物質であったり物理法則であったり、いわゆる「自然科学的」なものについては、あくまで世界に存在していたものを認識できるように言葉や数式などで可視化し、「名前」でラベリングすることで人間が扱えるようにパッケージングしたものだ、という認識をしている。

では、「人間が作ったもの」と一般に思われるであろう「物語」についてはどうだろうか。伝記や叙事詩のように、実在した(と伝えられている)ものについて書いたものは、脚色の多寡はさておき、実際のイベントについて語ったとしてとりあえずは差支えないだろう。それについては割愛する。そうではない、「フィクション」について。現代のサブカルチャーにおいて発表されている作品のほとんどを占めるだろうフィクションは、いったい何に拠って立つのだろうか。自然科学の場合における「発見した対象」に相当するものは何なのだろうか。サブカルチャーに親しむにしたがって、こういった疑問が自分の中に生じたのだ。

「この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません」

といったような注意書きをテレビドラマなどでも頻繁に目にするように、フィクションは架空である。それは間違いない。アイドルマスターに登場するキャラクターたちも、実在ではありえない。緒方智絵里ちゃんが僕の前に姿を現す可能性は微塵もないのだ。

しかし、ここで前述の自然科学についての話を思い出す。どれだけ実際的なものを扱っていようと、数式は姿を持たないのである。姿を持たないが、数式は性質を表す。それと照らし合わせば、物語は、登場人物は、ある種の「性質」を表すもののように考えることはできないだろうか。たとえば物語は「法則や定理を導き出す過程」のように、登場人物は「様々な物性を持つ物質を混合した混合物の示す性質」のように。実際、登場人物の外見や性格を含めた特徴は、個々に分けてみれば実在の人物のそれと相同である。そう考えれば、フィクションというものも、あくまで現実の再構成という範疇にあると言える。

一方で、魔法やタイムトラベルなど、現実には存在しえないものについてもフィクションにおいては言及される。現時点で科学的に解明されている範囲においても、存在するとすれば矛盾を生じてしまうものは多々ある。神話などその最たる例だろう。こういったものの存在は「フィクションは現実の再構成である」ということの反例に他ならず、よってこの命題は否定された。

よくよく考えてみれば、自然科学的なものについての論理においても、例えば機械やコンピューターの発明などはこれで説明がつかない。出発点からしてずれていたのだ。悲しいかな。これで説明がつくのはあくまで「科学」の範囲であり、「技術」はまた別枠だ、ということを見落としていた。

では、この二つを別々に適用してみるとどうか。個々の事象について自然科学的云々で考えたのと同様にするのは問題ないであろう。そして、先ほどの思考で「物質を混合した」というところは、技術において「組み合わせる」ことと似ていることに今更ながら気づいたのだ。ということで、「個々の事象を認識し」「それらを組み合わせる」というように、初めの部分を変えよう。そうすると、魔法も(たとえば火炎放射器などで)「火を出す」という事象と「人体」という事象を組み合わせることで「火を噴く」といった思考から語る、といったように説明できる。タイムトラベルも、(通常は空間において移動するものである)「旅」という事象と「時間」という事象を組み合わせる。これに至っては言葉のままである。どうして気付かなかったのか。少々寝ぼけたような目では簡単なことも見落としてしまう。

結局、この世界に実在するものを概念化し個々に切り分けた「概念の原子」を様々に組み合わせ、時に「再定義」することで、現実を説明することも、架空を語ることもだいたいできてしまう。「もの」と「行為の結果としての実在」を合わせれば「ものを作った誰かの存在」を説明できるように、たとえば天地創造の神だって、「この世界」と「行為の結果としての実在」を合わせて説明できるのだ。

ということは、「物語を書く」ことにおいて重要なのは、極論すれば「概念の原子」と「組み合わせ方」を多く知り、時に自ら生み出す術を持つことと言ってもいいだろう。つまるところ、創作をするにあたっては様々なことに触れて多くの知を得ることが強くなるためには必要であり、たとえばゲームを作りたいというときには(プログラミングやグラフィックなどの技術面をさておいても)たくさんのゲームをプレイした、というだけではできないし、小説を書くというときには「たくさん本を読む」ということはさほど中心的にはならないのである。

 

……などということを書き散らしながら、また明日は何を学べるだろうかと、この世界に期待しながら眠りにつくという幸せな生活を夢見て今日も生きたことに感謝と少しの嫌味を言うのであった。こうやって実にくだらないことを弄んだことも、「当たり前」を疑う思考を身につけていけばまた違った発見に少しは役立つかもしれないから。斜め上に行ったっていいのさ。

 

というわけで、可読性を一切考慮しないとりとめのない文で失礼します。もうちょっと哲学学んできます。

 

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