曲がり角のその先に
「曲がり角のその先に、一体何があると思う?」
もし何か一つだけでも、僕の大好きなあの夢見がちな少女と話す機会があったとしたら、僕はそんなことを訊いてみたい。
ここでいう曲がり角というのは、変に捻くれた比喩表現なんかでは決してない。ごく普通の、どこにでもあるような曲がり角だ。
かの有名な哲学者マルティン・ハイデッガーは、存在論を展開する上で『世界内存在』という概念を提起したわけだけれど、最初の問いの意味を説明するには、この考え方について話すのがきっと手っ取り早いだろう。本当はそんな簡単な話ではないとは思うが、しかし、分かりにくいのを承知の上で一つたとえ話をしようと思う。ちなみに僕自身も聞きかじった程度なので、解釈が間違っている可能性は大いにあるということを先に断っておく。
自分が机に向かって勉強しているのを想像してみてほしい。別に自室でも教室でもどこだって構わないが、ここは分かりやすく自室を想定することにしよう。
今日は休日だ。ふと時計を見てみると、何と針は12時前を指している。まずい。もうすぐに観たいテレビ番組の始まる時間になってしまうではないか。とにかく勉強は一時中断し、すぐさまテレビをつける。そうして短いようで長い時間はあっという間に過ぎ去り、今回の内容も良かったなとしばらく余韻に浸る。
さて、そこで質問なのだけれど、テレビをつける前に自分の置いた勉強道具は、いま何処にあるだろう。そんなこと聞かれるまでもなく、自分の置いた通りの場所にあるに決まっている。というより、実際に確かめてみればすぐに分かることだ。部屋に実体を伴う幽霊でも住みついていない限り、勉強道具一式はそこに置かれたままだろう。
では、もう一つ質問を。自分がテレビを観ている間も、その勉強道具はずっと変わらず其処に在っただろうか?
この問いに対しても、肯定を返すのが普通だろう。少し乱暴だが、ここではその考え方を『世界外存在』と呼ぶことにする。『世界外存在』とは、「観測対象が其処に在るから、観測者が存在する」という考え方、要するに「在る。だから視る」という考え方だ。この考えの重要なポイントは、観測対象の在り方が観測者に依存していないということで、つまり自分がテレビを観ている間もなお変わらずに勉強道具は其処に在ったはずだとする考えは『世界外存在』だといえる。
すると『世界内存在』の意味を捉えるのが比較的容易になると思うのだが、つまり『世界内存在』とは『世界外存在』の逆で、「観測者が存在するから、観測対象が其処に在る」とする考え方、要するに「視る。だから在る」という考え方だ。つまり、先程の二つ目の問いに肯定以外を返した人はこちら側の人間ということになる。
後者の立場では、観測対象が観測者に依存する。つまり、観測者の存在非存在によって観測対象の在り方が変化するわけで、この辺りは量子力学で扱われる光の波動性と粒子性に何となく通ずるものがある。また、観測者と観測対象を結び付ける事象を『存在可能性』という。
以上の例では観測という行為そのものが『存在可能性』となるわけだが、これはあくまでも一例であり、ハイデッガーの論はここからさらに発展してゆく。だが、これ以上は不要だ。
本題に戻ろう。何故わざわざハイデッガーを引っ張り出してきたのかといえば、最初に示した問いに対する自分の考えを提示するためだった。というのも、影響を受けたというわけでもないのに、僕の考え方は『世界内存在』に少し似ているように思うのだ。
曲がり角の先にあるものと訊かれて、最初に思いつくのは道路だろうか。あとは現実的なところだと、電柱、住宅、煉瓦の壁、花壇、水たまり、自転車、排水溝、ゴミ捨て場、宙に張り巡らされた電線に、けたたましい鳴き声を上げる烏の群れ、もしかすると下校途中の小学生の集団なんかもいるかもしれない。
でも、僕はこう想像することがある。もしかしたら見習いの魔女達が道路の真ん中で他人の迷惑も顧みずに楽しそうなお茶会をやっているかもしれないとか、あるいはバグったゲーム画面宜しく空間が不連続に断絶されているんじゃないかとか、いやいやもっと突き詰めて其処には何もなく、あえて言うなら無が在ったりして、とか。
でも、実際のところ、ひとたび角を曲がってみれば、そこには至極平々凡々とした現実が呑気な顔をして居座っていて、そんな非科学的な現象の存在はどこにも認められない。そう分かってはいても、心のどこかで期待してしまう。そこに非日常があればいいのに、と。観測者が対象の在り方を決めるのだから、観測されることで否定される幻想があるのと同様に、観測されないことで存在できる幻想もあって然るべきだろう。これが僕の考え方だ。
要するに、僕は未だに中二病から抜け出せていないわけだ。僕にとって、自分が観測出来ない空間というのは、つまり、あり得もしない嘘が伸び伸びと羽を伸ばすことのできる唯一無二の不可侵領域で、ある意味では落書き帳に描き殴った空想の墓場とも、行く宛の無い感情の掃き溜めともいえる場所だった。こんな無意味に気取っただけの何を言っているのかよく分からない言い回しをしている時点で、中二病真っ盛りだということは十二分に伝わるはずだ。
しかし、そういう意味において、誰にとっても自分という存在はどこまでも主人公であると言っていいと僕は思う。というのも、主観でしか捉えられないこの世界においては、自分以外のあらゆる存在は観測者になり得ず、結局、自分が世界をどう視るかというその一点のみに依存するのだから。
こんな幼稚な考え方をしているから、だから、一目見たその瞬間に、僕はどうしようもないほどに彼女のことを――七尾百合子のことを好きになったのだろう。
だから、僕はこう尋ねる。
ありふれた日常の僅かな隙間に、あの空想文学少女なら一体どんな光景を思い描くだろうかと期待しながら。
「曲がり角のその先に、一体何があると思う?」