好きになるということ

 

 

 貴方には『好きなこと』が何か一つでもあるだろうか。僕はある。絵を描くことや、曲を作ること。もちろんアイマスや数学だって好きだし、最近では文章を書くのもとても楽しくなってきた。その中のどれを取ったって、それが抜きんでて得意だということはないし、周囲を見渡せば、僕よりもそれが好きであろう人なんてごまんといる。それでも、僕はそれが好きだと胸を張って言える。だって、好きだから。それ以上の理由なんてなくてもいい。

 それは何だっていいし、たとえ何であっても誰かがとやかく言うべきことではないと思う。だから、少しでも自分が気になったことへは積極的に手を伸ばしてみるべきだ。もしかすると、悪意のある誰かが稚拙な自分を嗤うかもしれないけれど、それはきっと『好き』へと繋がるだろうし、そうなれば、そういった人間が如何に下らない存在だったかということがよく分かる。

 しかし困ったことに、多くの場合、その『悪意のある誰か』というのは他ならぬ自分自身だったりする。「自分なんかが……」と言い、新しいことへ挑戦するのを躊躇っている人なんて、周りにいくらでもいるだろう。そもそも、僕だってそういう人間だ。野球の試合になんて、誘われたところで行くはずがなくて、そういうときに僕は「自分なんかが……」と思うわけだ。その後に来るのは大体「自分よりもうまい人が……」だったり「迷惑をかけるんじゃ……」だったりするわけだけれど、そういう言葉は大抵言い訳に過ぎず、心の奥をじっくり覗いてみると「みっともないところを見せたくない」という気持ちが少なからずある。そして、こいつが自分の足を止める原因だと僕は思っている。

 何か新しいことへ挑むとき、どうしようもなく自分は挑戦者であって初心者だ。初めからチートステータスで冒険へ出発する勇者なんて、いたとしてもごく少数でしかなく、自分もまたそういう存在であると思いこむことはただの自惚れでしかない。一方で、自分を初心者であると認めれば認めるほど、次の一歩を踏み出すのが難しくなる。その最初の一歩を後押ししてくれるのはきっと『好奇心』なのだろうけれど、大人になればそういう心よりも『名誉欲』の方が強くなるわけだ。だから、その先へと踏み出せない。挙句の果てには、自己防衛の為にか、それを嫌いになったりもする。スタートラインにすら立っていないのに、「あれは面白くないよ」なんて、どの口が言うのだろう。

 小さい頃は、きっと『名誉欲』なんてものはそう大きくはない。それは狭く、かつ未熟であることが当たり前の世界に生きているからだ。自己との比較対象が少ないからこそ、あるいは誰もが初心者であることが当然だからこそ、子供はなりふり構わず色んなことへ挑戦する。大人から見れば全く稚拙なのに、それでも、それ以外の何も見えなくなるほどに夢中になれる。いまや成人してしまった自分としては羨ましい限りだ。

 

 さて、ここまで思ったことをそのままつらつらと書いてきたわけだけれど、結局何が言いたいのかと言えば、「何か気になったことがあるのなら、自分自身も含めた一切の否定を振り切って一度やってみるといい」ということだ。「好きの反対は無関心」だなんて言うけれど、ならば「興味・関心の反対は否定」だと僕は思う。いや、これは流石に過言だけれど、でも、内から生じる興味を殺すためには、それが嫌いなのだ(あるいは苦手だとか出来ないだとか)と自分を騙すしかないのだろうと思うし、そういう意味ではあながち言い過ぎではないかもしれない。

 大人になればなるほど、『好きになるということ』は決して簡単ではなくなる。それは『名誉欲』に抗うということもそうだが、何かしらの努力を要するからだ。「そんな、努力なんて馬鹿らしい」と思う自分がどこかにいる。でも、『嫌いになるということ』は恐ろしく簡単で、これには何の手間もいらない。だからこそ、日々を『否定』で埋め尽くすような生き方はとても気が楽なのだろうけれど、せっかくの人生をそんな思考停止の毎日で過ごしたいとは、僕は思わない。それだけの話だ。

 

 昔夢中になって描いていた絵をいま見てみると、何て下手な絵なんだろう、と思う。しかし、あの頃の自分はたしかにそれを好きになって、だから今「絵を描くのが好きだ」と言える自分がいる。いつの頃からかすっかり忘れていた当時の感覚を思い出せただけでも、大学へ進学してよかったと僕は思った。

 

@1TSU8