社畜の戯言

皆さんあけましておめでとうございます。おますけです。

2018年と言えばなんと言ってもワールドカップ!ロシアW杯の事とかをつらつらと書いていこうと思います。

 

というのは嘘です。サッカーの話をしてもいいのですが、まだW杯まで6カ月もあるのでここではちょっと別の話をします。

 

今日の日付は1月2日(多分投稿されているのは1月3日)、世間では正月休みだとは思いますが、自分は現在実家に帰省して日々バイトに明け暮れています。わかる人にはわかると思うのですが、自分が生まれ育った町に久しぶりに帰って来ると、なんとも言えない気持ちになることが多々あります。幼き日々に遊んだ家の近くの公園は、自分のイメージよりはるかに狭かったり、小学生の頃はみんなとわいわいしゃべりながら一時間以上かけて帰った通学路も、今の自分が歩けば10分そこらで帰れてしまう。幼少期に生きてきただだっ広い世界は、あまりにも小さかったんだなあと今になって思い知らされます。

 

ところが、今の自分では見えない世界も広がっています。公園の中にある茂みに隠された秘密の抜け道、フェンスを乗り越えた先にある森の間を流れている川、幼少期の思い出とともにあった小さな世界は、今の自分からは見ることができません。もちろんいまだって茂みに入ることはできますし、フェンスに関しては子供のころより容易く乗り越えられるでしょう。しかし、その先に広がっている世界は子供の頃に見た世界とは似て非なるものです。もし大人になった今の自分がその場所に足を踏み入れても、そこから先へ進むことはないでしょう。

 

なぜ、先に進まないのでしょうか? この問題の答えとして、人々はよく「好奇心」という言葉で子供の感性を表現します。好奇心旺盛だから未知なる世界に足を踏み入れるのだと、大人になるとその好奇心は失われていくのだと。自分も子供が好奇心旺盛であることに疑いを持ったことはありませんが、果たしてこの問題の答えとして「好奇心」という言葉は適切なのでしょうか?

 

結論から述べると、自分は違うと思います。好奇心というのは未知への探求心を表すものであるならば、これは老若男女問わず誰もが持ち合わせているはずの感覚です。知らないことを知ろうとする、この感覚が年齢に左右されるものではないということは実体験でもいくらか思い当たることがあるのではないでしょうか。見知らぬ場所に足を踏み入れる子供と日々世界の情勢に関心を寄せる大人との間に好奇心の明確な減少は見られません。ではなぜ「好奇心が失われる」といった誤解が生まれるのでしょうか。

 

まず言えるのは、人は自分の好奇心には意識が向いていないということです。幼少期に自分の好奇心について思いを巡らせた人はおそらくいないと思います。なぜならば、自分の興味のある対象、つまり好奇心のターゲットとなり得るものに対して「自分は自らの好奇心に基づいてこの対象に興味を示した」なんてことは考えないからです。自然に、という表現が正しいかはわかりませんが、好奇心は自分の潜在意識の中にあるのもであり、なかなか自分の目からでは気づきにくいものであると思います。

 

次のポイントが重要なのですが、成長するにつれて、好奇心の特性が異なってくるからです。幼少期には周りのすべてのものが好奇心の対象となり得るものであるので、見境なく子供は未知を探求します。ところが、大人は過去の自分の探求の結果から、好奇心の対象となり得るものを絞り込む、要はセレクションを行っているのです。こうして広く浅い子供の好奇心と、狭く深い大人の好奇心という2種類の好奇心が存在しているというわけです。

 

こんなにもつらつらと好奇心について御託を並べて、結局何が言いたいかと言えば、子供の頃に生きていた世界は案外広いようで狭いようで広かったという話です。幼少期の思い出のたくさん詰まった世界を眺めながら、明日もバイトに行ってきます。