感情と論理

理性的でありたい、論理的でありたい。かつて自分が望んだ像だ。自己の感情なんて、直感なんて、それを妨げる不必要なものだとすら思って排除しようとしていた。強くなりたい。強くあらなくてはならない。押し流されないための強い盾を作らなくてはならない。正しさという担保があれば、それを盾にできる。感情はその盾に脆さを作るものだとばかり思っていた。他者に攻撃されうる隙を自ら作ることを愚かだと見下してさえいた。

 

逆だった。

 

本当に強いのは、感情の迸りを持ち、それをある程度理性的に制御できる人格だった。正しさを自己存立の拠り所にするのは、強すぎる殻で自己を覆わなければ立つことすらできない、弱さそのものだった。論理は適切な材料と適切な処理をもって扱わなければ決して正しい答えを与えてくれない。「正解」が存在しないような問いには決定打たりえない。この世界のすべてに論理だけをもって対峙する人間の態度というものはあまりに無力だ。硬化した態度はしなやかさを失うことと同義で、それは凄まじい強度を持たなければ折れてしまいうるということをも意味する。

これまでの自分を振り返って、こうなのではないかと一応の結論を出したが、今のところこれに問題は感じていない。今の自分に一番必要なものはしなやかさとそれによる復旧力だという考えに疑問は持っていない。

 

ここまで少しばかり自分語りをしてきたが、この話をこの場でしたのには理由がある。タイトルにある通り、「感情と論理」だ。一般的にはこれらは両極にあり、相反するものだと考えられることが多いだろう。現代文の問題などでも「感情的」と「理性的」が対義語かのように扱われる場面は枚挙に暇がない。実際、論理のほうが客観的で知性的であることを否定するつもりはない(ここでの論理とは自然な論理を指し、「まああの人たちの中ではきっと論理が通っているのだろう」というようなものは含まない)。しかしながら上述したように、本当に「相反するもの」なのだろうか。むしろ、両方とも併せ持つことによって、「言葉」はより強く人の心に届くのではないだろうか。人は思考をしつつも、心で生きている。だから、「正しい」だけの言葉は、下手をすると「感情的」な言葉よりも力を持たない。届かない言葉に言葉としての力はなく、この世界の塵となって消えていくだけだ。

「人の心を震わせる言葉を紡ぎたい」

これを何より望む自分にとって、「言葉の力」は死活問題でもある。色々な経験をまた重ねて、そこからまた思考を重ねて得た結論が、中ほどの話だったのだ。自分の中にある「熱」をもって、それをうまく操ってやることが、強くなる道だと、確信した。

 

「好き」と「伝えたい」の炎を、もう一度上げよう。


文・五十嵐悠紀