ロールプレイング 活字アレルギー

こんにちは。ラミンです。お久しぶりですね。

 

読書の話をします。ymdさんがよく話していることなので、聞いたことがある内容かもしれません。ごめんなさい。

 

 

 

活字アレルギーなんですよね。

基本的に人の話を聞かない人間なので(世界が頭の中で完結してしまっている)、日本語の文章を見たときに「その書き手の書く文章の内容が読む価値があるという確証を得られない限り真面目に読もうとしない(できない)」のです。

ネットの海に漂流している長い記事ってあるじゃないですか。最初の方は読もうとするのですが(その記事のページを開いている以上少なくとも読み始めようとした動機があるはずで、読み始めた頃はまだその意識の残り香が漂っている)、途中で飽きます。

は?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。文章に手を付け始めたのは自分の意志であるくせに、途中で読者としての責任を放棄するのはあまりに書き手に対して失礼ではないかと。まぁ概ねその通りです。でも世の中その程度でしょう。

 

本に関しても同じことです。

これは誰しもが経験することだと信じていますが、本を読んでいるときって「字面を目で追っているが、内容は少しも頭に入ってこないし、意識は全然別の所にいる」みたいな状態が頻発しませんか?

のみならず、僕は自分から進んで本を読んでるのに、読書の途中で本を読むという行為に飽きて、中断してスマホを弄ったりしてしまうんですよね。もはや発作的です。その発作は4ページに1回ぐらいのペースで起こるので、読書に恐ろしいほどの時間がかかってしまいます。

 

読書、めちゃくちゃ苦手です。好きではないとすら断言できます。それでも読書を続けるのは何故でしょうかね。パッと思いつくのは登山的な理論(山道を登る苦労があるからこその山頂の眺めというカタルシス)ですが、別にそんなカタルシスのために本を読んでいるとは到底思えません。苦痛は少なければ少ないほどいいものです。

 

僕がよく引用するショーペンハウアーの言葉に、『読書とは他人にものを考えてもらうことである』『読書に勤しむ限り、実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない』という言葉があります。

単純な話、読書は「今の自分が保持していない思索の結果を手早く回収することのできる時間短縮」じゃないですか。

その気になれるんですね。簡単に考えた気になれる。しかも自分自身すら騙してしまえる。

 

上記のこととはあまり関係がありませんが、僕の趣味は読書です。

 

みなさんも本を読みましょう。とりあえず舟を編んだり夜にピクニックに行ったり膵臓食べたりすればいいんじゃないですかね。ちなみに僕は膵臓を食べたことがありません。一生食べるつもりはないです。そのことに特別な理由があるわけでもありません。

 

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